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なぜ柔道整復師になったのか?

私が柔道整復師を志した理由(代表 宇都啓二)

面接などをするときに、よく「なんで柔道整復師(鍼灸師)になったんですか?」と質問することがあります。やはりその道を志した「動機」的なものが気になりますし、どんな思いでこの道を歩こうとしているのかを知りたくなるのが普通ですよね。同様に、交流会などに行ったりまだ知り合って間もない先生がたと飲んでいる時に「先生はなんで柔道整復師になったんですか?」と聞かれたりもします。ここでは、新宿ライオンハート整骨院グループ代表である宇都啓二の、柔道整復師になった理由・動機について、20代前半の若かりし頃の思い出とともに参考程度に紹介していきます。

夢も希望もなかった20代前半

私が治療の道に入ったのは少し遅く、25歳くらいの頃でした。それまではこれといってやりたいことなどもなく、とくに仕事に関しては夢や希望を持つことができずに、ただ漠然と無目的に生きているような感じでした。(カイジの1巻の最初のような感じです…)私は獨協大学という大学も出ているのですが、普通は大学3年の頃から就職活動を始め、大学4年の頃には内定をもらっているのが一般的で、私の周りの友人もほとんどが進路を決めていました。しかし、私はその流れに乗るのが何故か嫌で、就職活動すら全くしませんでした。東京生まれ東京育ちである私は、実家が足立区にあるので生活していくことに対する危機感などもなく、景気も今よりずいぶん良い時代だったので「まぁアルバイトでもしてればお金は入るからまだ就職はいいや」といういいかげんな考えのいわゆる「フリーター」志望。結局大学を卒業した後は、いろいろな短期のアルバイトをしながら過ごしていました。性格もひねくれていて、人に命令されたり指示されるのも嫌いですし、周りの人と協調するのも苦手だったので、治療の道に入る前の最後1年~2年くらいはバイク便をやっていました。

 

2000年6月に起きた悲しいターニングポイント

25歳くらいの頃は、周りの同級生たちがちゃんと就職して一人前に仕事している姿を見て、自分だけ取り残された現状に焦りを感じていながらも、自分の行く道を見いだせないもどかしい気持ちでいっぱいでした。将来に夢や希望を見いだせない自分に劣等感を感じていたし、他人に「おまえ将来何したいの?」って聞かれることがとても苦痛でした。ほんとにやりたいことがなんにもなかったんです。宇都啓二25歳、職業フリーター、将来の夢なにもなし…世間から見たら「あいつ大丈夫か?」と心配されるような存在です。

そんな私に、2000年6月に大きな事件が訪れました。私の当時の家族構成は、会社員の父、専業主婦の母、優等生の兄、無気力な私の4人家族。兄はとても優秀で、早稲田大学を出て三井ホームに入社、営業部で成績もよく、兄のいた営業チームは全国でも一番でした。性格も優しく親孝行、こんな兄がいたので「兄貴がいるから両親のことは兄貴が見てくれる。俺は適当でもいいや」と高をくくっていたのかもしれません。そんな兄が突然事故で他界してしまったのです。享年26歳。死因は過労死。前日まで普通に元気だったのに、朝起きたら息を引き取っていたのです。受け入れがたい現実でしたが、あまりにリアリティがなく、悲しみすらもわいてきませんでした。

葬式が終わり火葬場で最後の別れをするときに、両親は大きく泣き崩れながら名前を呼んでいました。まだ26歳のわが子が突然死んでしまったのですから当たり前です。その後もしばらく両親の落ち込み方はひどく、家の中はずっと暗いまま。そんな両親の姿を見て、私はかわいそうでかわいそうで胸が張り裂けそうな気分でした。突然一人っ子になった私は「あっ!これからは両親のことは、俺が守ってあげなきゃいけないな」と、はじめて強い自覚や責任感が芽生えてきました。そして、とりあえずフリーターはやめてまずはまっとうな職業につこうと決意したのです。2000年8月くらいのことでした。

職業選びは運任せ

どこかに就職しようと思ってはみたものの、どんな仕事がいいのかわかりません。まずは本屋さんに行って就職系の本を立ち読みしました。いろんな職業についての年収や将来性、仕事内容などが書いてある本です。しかし本を読んでも全然ピンとこない。そもそも「実際に何年か働いてみなきゃわかるわけねーじゃん!」と思っていたので、いっそのこと考えるのをやめることにしました。ようはわからないんだから何でもよいのです。どの道に進んでも結局はその人の努力と運しだい。いい道もわるい道もない。だったら運を天に任せて決めようと思い、目をつむってパラパラと適当に本をめくって、最初に止まったページの職業を自分の一生の仕事に決めよう。「パラパラパラ…パッ!」そうして最初に止まったページに載っていたのが「手技療法」という仕事で、手技療法の道を行くことを決めました。(これマジの話です。)

のめりこめば好きになる

その後はカイロプラクティックの学校に通いながら、リラクゼーション~整体院~整骨院などで働き、柔道整復師の免許を取得し今に至ります。人よりも少し遅い出発だった分、26歳以降はのめりこむように治療の世界に入っていきました。友人とのつながりもほぼ断ち切ってひたすらに治療の勉強・勉強・勉強。やるからには誰にも負けたくない。少なくとも努力の量で負けたくはない。そんな思いで努力したおかげかメキメキと成長していきました。不思議なことに、それに比例して治療することがどんどん好きになっていきました。

はじめは治療することに対して好きとか嫌いとか何の感情もありませんでした。本屋で本をパラパラめくって決めた職業なのだから当たり前です。20代前半の頃、やりたいことや好きなことが見つからず、先が見えない自分がいました。しかし、初めからそんなものはないのが当たり前なのだと気づきました。成長していく実感や、人より上手くできるという優越感や、それが得意だという認識や、人に褒められた、称賛されたという経験を通して「この仕事が好き!」「もっとやりたい!」となるようです。なので、ごちゃごちゃ理屈をこねて何もやらないうちは何も見つからなくて当然なのです。まずは何も考えず一所懸命に打ち込むこと。そうすればどんどん仕事が好きになります。

家族への想いは普遍の動機

結論として、私がこの道に入った動機は「俺が両親を守らなければ」という父親や母親に対する想いであり、治療や治療家という職業に対する想いは「後付け」でくっついてきたような形です。もちろん今では治療家、柔道整復師という職業が大好きですし、誇りに思っています。この職業に救われた部分もあります。大切なもの全てをいただけたようにも思います。運拭天拭に任せて選んだ割には、最高にいい職業に進めたと思います。

世の中には、引きこもりやニートと呼ばれる若者たちが多くいます。私はたぶん、一般的な人より負けん気が強いし、いろいろな才能もあるので引きこもりやニートにはなりませんでしたが、正直その人たちの気持ちが少しだけわかります。私も同じように明るい希望が見えず、何をしたらいいかわからず、動けなくなってしまった時期がちょっとだけあったからです。

「職業に貴賎なし」という言葉があるように、どんな職業でも、存在している以上それを必要とする人が必ず存在しています。その職業に価値があるということです。その人自身にもその価値が加わるということです。両親のために、家族のために、まずはどんな仕事でもいいのでやってみることが、道を切り開く第一歩だと思います。誰かが言った「好きなことを仕事にする」なんてのは、家族を想う気持ちから見れば小さなことではないでしょうか。